高村光雲遺宅
公開はされていません。 高村光雲(こううん)・豊周(とよちか)遺宅 千駄木 5-20-6 高村光雲(1852~1934)は、浅草の生まれで、旧姓中島。仏師高村東雲の門で木彫を学び、師に認められてその姓を継いだ。 ...

「幕末維新懐古談・仏師の店のはなし(職人気質)」 高村光雲
「幕末維新懐古談・仏師の店のはなし(職人気質)」 作:高村光雲 Takamura, Koun朗読:日高徹郎5分13秒 師匠東雲師の家が諏訪町(すわちょう)へ引っ越して、三、四年も経(た)つ中(うち)に、珍しかった硝子(ガラス)戸のようなものも ...

高村光雲
高村光雲 (老猿)

美の巨人たち 高村光雲の「老猿」
美の巨人たち 高村光雲の「老猿」を 見ました、高村光雲も老猿も知っていま したが、まさかこんなエピソードがあった とは 、、、、 高村光雲は明治の彫刻家です。他の 彫刻家が西洋風に粘土での成形に移るなか、 あくまで木彫にこだわった人です。 ...

老猿 高村光雲作
10月19日の国立博物館にて。 初めて見た実物に圧倒された。 顔の部分はツルツルに磨かれていた。 左手は羽根を持っていた。 二の腕には葉っぱが落ちていた。 足の表情。

高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日 (旧暦) 2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。
江戸下谷(現・台東区)に町人兼吉の子として生まれる。1863年から仏師高村東雲の元に徒弟となる。後に東雲の姉エツの養子となり高村姓を名乗る。1890年から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に任ぜられる。1893年には老猿をシカゴ万博に出品。1919年には山霊訶護をパリ万博に出品。1926年に東京美術学校を退職し、名誉教授に。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
高村光雲の詳細